仏像3体目出来上がる

7月26日、ようやく仏像3体目ができた。
平成24年4月24日還暦で、仏像彫りを始めたので、2年で3体。
今回は髪の毛が難しく、面倒だった。
2体目は螺髪が面倒だった。
しかし、出来上がりが雑だな。
性格がよく、彫刻にでている。
雑は武道全般に通じて言える。
自分でもよく続いていると思うよ。
1体目 地蔵菩薩
2体目 螺髪が難しい
3体目 髪の毛が難しい
3体目
最近考えている「無の瞬間の模索」を記録に残しておく。
私は昭和63年、37歳の時に居合道を、川口の四誠館で始めたが、最初子供の付き添いで剣道を見ていて、剣道を薦められたが、体力的に自信がなく、居合道なら年齢に関係なくやれそうで始めた。その後、剣道、合気道弓道、ゴルフ、と始め、下手の横好きか、現在65歳になるまでなんとか続いている。
その間、剣道の先生に薦められ、四誠館の近く、川口 長徳寺で座禅、茶道を47歳にして始め、これもなんとか続けている。
長徳寺は、かの山岡鉄舟居士が、神田より長徳寺23世 願翁元志の元まで参禅したと、山岡鉄舟居士をかたる本には必ず出てくる、臨済宗建長寺派の古刹で、私の妻の家の菩提寺でもあり、家から10分ほどですので、私は、現在の30世、大有義宏(奥田義宏)、晩暉室 老子について、平成11年より、月に2回、日曜日ではありますが、15年、座禅を組み続けています。
山岡鉄舟居士の公案
「両刃鉾を交えて避くるを須いず、好手還りて火裏の蓮に同じ、宛然おのずから衝天の気あり。」相手と刃を交えたならば、その刃を避ける必要はない。名人ならば火に入ってもしぼまないような、衝天の気迫が自らになければならない。公案「五位兼中至」。「兼中至」とは、生と偏とが一如に兼ね合わさっている所、
それはどちらかが勝れ、どちらかが劣るというものではなく、正がそのまま偏、
偏がそのまま正の世界である。
ですが、私はいまだに「両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある」の初透関も透過できない状態で、坐禅を組み続けても、道を続けても、効果のほうは、無きに等しいのですが、全ては「無」「空」に通ずると、言う事なので、自分なりにどういう瞬間に「空」を「無」を体験したか、話したいと思います。
すべては私事の根拠のない話なので、その点は了解して頂きたいと思います。
居合道の「無」は刀を無心で抜出し、振りかぶり、相手に切り下す、その瞬間、頭上ではまさに「空」。
剣道の「無」は、立合って、間がつまり互いに剣先が交わり、打つ瞬間、この瞬間はまさに「空」。
合気道の「無」は、川岸を飛び超えようとした時、川に落ちそうになり、向こう岸の草を思わずつかんだ、その瞬間はまさに「空」。合気道の技をかけるときもかけられるときも、その「草」をつかんだ感覚が会得できれば、まさに「空」。
弓道の「無」は「会」で我慢しつづけ、離れる瞬間は、まさに「空」。
このとき雑念があれば、的ははずれる。
ゴルフの「無」はバックスイングでクラブを振り上げ、切り替えしてクラブが下がる瞬間はまさに「空」。この「空」がわかれば、右肘は右脇についていき、
円運動となり、玉はまっすぐに飛んでいく。
彫刻においては、顔を彫るのは最後。集中して彫り進み、「空」の境地になると鼻が浮き出てきて、最後に目が浮き出てくる。
茶道においては、最初は左手で茶碗を取って、右手に持ちかえて置き、茶をたて、左手の上で相手に出すときは茶碗を左周りにまわして、畳縁外に置く・・・自分で飲む時は右に回して茶を飲むとか、考えているうちは、所作が流れない。
見ていてもキレイでない。まさにそういう動作にとわわれず、「空」「無心」の境地になった時に、外から見る者にも、美しさ、感動を与える。
最後に「空」「無」の本家本元、禅道における「無」はいかなる瞬間に感じるのか?色々な書物によると、明け方か夕暮れか、鐘が「ゴ〜ン」と鳴った瞬間。
静寂の中に、花が開く「ポン」と鳴った瞬間。夜更け湖上を行く船上、暗闇の中、ふと月明かりを見た瞬間。無心で掃除をしていた時、掃いた小石が近くの竹に「カ〜ン」と当たった瞬間。「空」とは何か、問われた禅僧が、隣あって座っている二人の頭を「ゴッンコ」させ、二人が痛いと言った。その瞬間が「空」
と言ったとか。参禅の為、廊下を駈けていた僧が、床をぶち抜いた瞬間「空」
を悟ったとか。残念ながらまだ私には「無」の「省発」はあっても、「爆発」はない。
私が思うに「無」「空」になる方法は、自分を「捨てる」「捨てきる」、何を捨てる、「執着、差別、分別、区別、妬、優越感、恐れ 等等」捨てきる事に徹して、死に至るまで追い続ける。
どの道でも、偉くなると「無が大切だ、捨てきれ」と言い出す先生がいるが、
禅を組んだこともない、組んでも数回とか、「本」で読んだとか、真剣に「無」を経験しょうとしないのは残念である。
私があちこち「道」をかじりながら、すべて続けているのは、続けるという、行為、経験が何時かは「空」「無」に行きつくのではないかと言う事である。
この世で「空」とは何か、「無」とはなにか、すなわち「悟」を開けないと、死に至っても輪廻転生を繰り返す事となる。
「無」と言うか無常で思い出すのが平家物語の書き出し。
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。 奢れる人も久しからず、唯春の夢の如し。 猛き者も遂に滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 諸行無常という言葉から、この平家物語冒頭部分は、 とても暗い、説教くさい言葉と取られがちである。
運命の前に首をうなだれ、 ひたすら従うしか無いという暗い教えに取れる。
しかし、『平家物語』はそういう話ではない。 無常をじゅうぶんに自覚しながらも、 人生をせいいっぱいに生き、あらがい、 わんわんと涙を流し、真っ赤になって怒り狂い、おめき叫び、 親が子を愛し子が親を愛し、 ぎりぎりの状況で全力で生きた人々の生生しいドラマだからこそ、 『平家物語』が人の心を打つのだ、 諸行無常だから、ひたすら首を諦めて、 首をうなだれて生きろという話ではない