無の瞬間の模索3

禅を組んだこともない、組んでも数回とか、「本」で読んだとか、真剣に「無」
を経験しょうとしないのは残念である。
私があちこち「道」をかじりながら、すべて続けているのは、続けるという、
行為、経験が何時かは「空」「無」に行きつくのではないかと言う事である。
この世で「空」とは何か、「無」とはなにか、すなわち「悟」を開けないと、死
に至っても輪廻転生を繰り返す事となる。
「無」というか無常で思い出すのが平家物語の書き出し。
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理
を表す。 奢れる人も久しからず、唯春の夢の如し。 猛き者も遂に滅びぬ、偏
に風の前の塵に同じ。」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 諸行無常という言葉から、この平
家物語冒頭部分は、 とても暗い、説教くさい言葉と取られがちである。
運命の前に首をうなだれ、 ひたすら従うしか無いという暗い教えに取れる。
しかし、『平家物語』はそういう話ではない。 無常をじゅうぶんに自覚しなが
らも、 人生をせいいっぱいに生き、あらがい、 わんわんと涙を流し、真っ赤
になって怒り狂い、おめき叫び、 親が子を愛し子が親を愛し、 ぎりぎりの状
況で全力で生きた人々の生生しいドラマだからこそ、 『平家物語』が人の心を
打つのだ、 諸行無常だから、ひたすら首を諦めて、 首をうなだれて生きろと
いう話ではない