禅を組んだこともない、組んでも数回とか、「本」で読んだとか、真剣に「無」
を経験しょうとしないのは残念である。
私があちこち「道」をかじりながら、すべて続けているのは、続けるという、
行為、経験が何時かは「空」「無」に行きつくのではないかと言う事である。
この世で「空」とは何か、「無」とはなにか、すなわち「悟」を開けないと、死
に至っても輪廻転生を繰り返す事となる。
「無」というか無常で思い出すのが平家物語の書き出し。
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理
を表す。 奢れる人も久しからず、唯春の夢の如し。 猛き者も遂に滅びぬ、偏
に風の前の塵に同じ。」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 諸行無常という言葉から、この平
家物語冒頭部分は、 とても暗い、説教くさい言葉と取られがちである。
運命の前に首をうなだれ、 ひたすら従うしか無いという暗い教えに取れる。
しかし、『平家物語』はそういう話ではない。 無常をじゅうぶんに自覚しなが
らも、 人生をせいいっぱいに生き、あらがい、 わんわんと涙を流し、真っ赤
になって怒り狂い、おめき叫び、 親が子を愛し子が親を愛し、 ぎりぎりの状
況で全力で生きた人々の生生しいドラマだからこそ、 『平家物語』が人の心を
打つのだ、 諸行無常だから、ひたすら首を諦めて、 首をうなだれて生きろと
いう話ではない