無の瞬間の模索2

合気道の「無」は、川岸を飛び超えようとした時、川に落ちそうになり、向こ
う岸の草を思わずつかんだ、その瞬間はまさに「空」。合気道の技をかけるとき
もかけられるときも、その「草」をつかんだ感覚が会得できれば、まさに「空」。
弓道の「無」は「会」で我慢しつづけ、離れる瞬間は、まさに「空」。
このとき雑念があれば、的ははずれる。
ゴルフの「無」はバックスイングでクラブを振り上げ、切り替えしてクラブが
下がる瞬間はまさに「空」。この「空」がわかれば、右肘は右脇についていき、
円運動となり、玉はまっすぐに飛んでいく。
彫刻においては、顔を彫るのは最後。集中して彫り進み、「空」の境地になると
鼻が浮き出てきて、最後に目が浮き出てくる。
茶道においては、最初は左手で茶碗を取って、右手に持ちかえて置き、茶をた
て、左手の上で相手に出すときは茶碗を左周りにまわして、畳縁外に置く・・・
自分で飲む時は右に回して茶を飲むとか、考えているうちは、所作が流れない。
見ていてもキレイでない。まさにそういう動作にとわわれず、「空」「無心」の
境地になった時に、外から見る者にも、美しさ、感動を与える。
最後に「空」「無」の本家本元、禅道における「無」はいかなる瞬間に感じるの
か?色々な書物によると、明け方か夕暮れか、鐘が「ゴ~ン」と鳴った瞬間。
静寂の中に、花が開く「ポン」と鳴った瞬間。夜更け湖上を行く船上、暗闇の
中、ふと月明かりを見た瞬間。無心で掃除をしていた時、掃いた小石が近くの
竹に「カ~ン」と当たった瞬間。「空」とは何か、問われた禅僧が、隣あって座
っている二人の頭を「ゴッンコ」させ、二人が痛いと言った。その瞬間が「空」
と言ったとか。参禅の為、廊下を駈けていた僧が、床をぶち抜いた瞬間「空」
を悟ったとか。残念ながらまだ私には「無」の「省発」はあっても、「爆発」は
ない。
私が思うに「無」「空」になる方法は、自分を「捨てる」「捨てきる」、何を捨て
る、「執着、差別、分別、区別、妬、優越感、恐れ 等等」捨てきる事に徹して、
死に至るまで追い続ける。
どの道でも、偉くなると「無が大切だ、捨てきれ」と言い出す先生がいるが、