無の瞬間の模索

無の瞬間の模索
私は昭和 63 年、37 歳の時に居合道を、川口の四誠館で始めたが、最初子供の
付き添いで剣道を見ていて、剣道を薦められたが、体力的に自信がなく、居合
道なら年齢に関係なくやれそうで始めた。その後、剣道、合気道弓道、ゴル
フ、と始め、下手の横好きか、現在65歳になるまでなんとか続いている。
その間、剣道の先生に薦められ、四誠館の近く、川口 長徳寺で座禅、茶道を
47 歳にして始め、これもなんとか続けている。
長徳寺は、かの山岡鉄舟居士が、神田より長徳寺 23 世 願翁元志の元まで参禅
したと、山岡鉄舟居士をかたる本には必ず出てくる、臨済宗建長寺派の古刹で、
私の妻の家の菩提寺でもあり、家から 10 分ほどですので、私は、現在の 30 世、
大有義宏(奥田義宏)、晩暉室 老子について、平成 11 年より、月に2回、日
曜日ではありますが、15 年、座禅を組み続けています。
山岡鉄舟居士の公案
「両刃鉾を交えて避くるを須いず、好手還りて火裏の蓮に同じ、宛然おのずか
ら衝天の気あり。」相手と刃を交えたならば、その刃を避ける必要はない。名人
ならば火に入ってもしぼまないような、衝天の気迫が自らになければならない。
公案「五位兼中至」。「兼中至」とは、生と偏とが一如に兼ね合わさっている所、
それはどちらかが勝れ、どちらかが劣るというものではなく、正がそのまま偏、
偏がそのまま正の世界である。
ですが、私はいまだに「両掌相打って音声あり、隻手に何の音声かある」の初
透関も透過できない状態で、坐禅を組み続けても、道を続けても、効果のほう
は、無きに等しいのですが、全ては「無」「空」に通ずると、言う事なので、自
分なりにどういう瞬間に「空」を「無」を体験したか、話したいと思います。
すべては私事の根拠のない話なので、その点は了解して頂きたいと思います。
居合道の「無」は刀を無心で抜出し、振りかぶり、相手に切り下す、その瞬間、
頭上ではまさに「空」。
剣道の「無」は、立合って、間がつまり互いに剣先が交わり、打つ瞬間、この
瞬間はまさに「空」。